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評価:
青柳 恵介
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下で取り乱してる先のこの方ですが。。
故白洲次郎さん。
このおじさま(って言うのが一番自分には合ってる気がする。。)にまつわる様々な逸話、読めば読むほどいたく感動し、読めば読むほど“この人こそ男の中の男だわ。”と、真剣に思ってしまいます。(今のこの国の政治屋さんたちにこの方のことをじっくり勉強してもらって、自身を律していただきたい思いでいっぱいでございます。
)
英国留学で身に着けた教養・思想から、彼自身による"principle"(原則)を持つことを是とし、筋が通っていないことをすればどんな権力者でも(マッカーサーでも田中角栄でも)果敢に挑みひるむことがなかった。日本の行く末を心から思って戦後の国の方向付け(産業を輸出主導型へ転換させるべく、通産省を設立。電力事業の再編等。)に尽力したが、表舞台に立つことはせず、常に黒子に徹することを忘れなかった。英国から学んだ“noblesse oblige (高貴の義務・・・地位の高い者はその地位において社会的義務を負う)"という思想・精神を持っていた。
戦前から日本の敗戦やそれによる食糧不足を予想して田舎に引っ込み、農業に励んで近所や友人に食料を配って歩く。。この田舎に引っ込むというのも、英国流の“カントリー・ジェントルマン"(田舎にはいるが常に中央の政治に目を光らせ、いざという時には中央に出向き、彼等の姿勢を正す)という思想のなす業で、財はあってもそれを実行することができる、崇高な精神の持ち主だった。彼の生涯の友人であるストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビングゥもそういった類の貴族だったとか。
気骨があって癇癪持ちではあっても威風堂々として天衣無縫な人柄。80歳過ぎまでポルシェを乗り回し、友達思いで情に厚く、女性・子どもに優しい。随筆家の正子夫人によると、『彼のゲンコはいつも権力者や、強いものに向けられており、弱いものいじめをしたことは一度もない。家族のものに対しても、ブツブツ文句はいったが、手を出すようなことは絶対になかった。(白洲正子著“遊鬼・わが師 わが友”より)』そうだ。そして照れ屋でチャーミング。日本で最初にジーンズを穿いた男。かっこよすぎる。。
好きな逸話を少し。
☆田舎に引っ込んだ際、友人・知人に自分で作った作物を配って歩いていた。(本人は、作ったものは家人だけで一杯一杯だったので、他人に分けるものはなかったと言っているが。)そのやり方がかっこよくて、玄関に黙ってやってきて野菜をどかっと下ろし、何も言わずに去って行ったとか。(笑)
☆寝言はいつも英語で、"Shut up!" "Get out!" "Go away!"と怒鳴りちらしていた。
(英語のほうが安心してしゃべれていたらしい。。)
☆英語は“オックスブリッジアクセント”と呼ばれる英国のオックスフォード、ケンブリッジ大学出身者だけがしゃべる英語(上流階級の間で相当な待遇を受けるような英語)を流暢にしゃべっていたが、日本語になると途端につっかえて下手な日本語になっていた。
(ちょっとかわいそうで、かわいい。。(笑))
☆GHQホィットニィ民政局長に『実に英語がお上手ですな。』と言われ、『あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ。』と答えた。
(これはキングスイングリッシュをしゃべれないアメリカ人への、また、それが英国では上流階級相当な待遇を受けるオックスブリッジアクセントであるということを知らないという無教養な局長への痛烈な皮肉だったとか。)
☆伝を頼ってやってきた人に便宜をはかってやり、その礼にと金品を持ってきたりすると、
『馬鹿野郎、俺は大金持ちなんだ。そんなもの貰えるか。』と、怒鳴ってよく追い返していた。
☆『軽井沢ゴルフ倶楽部』の常務理事の頃。
その1.
某N首相が護衛を連れてきてプレイしようとしたが、N首相は倶楽部のメンバーでも護衛はそうじゃないんだからと、護衛を入れなかった。
(護衛さんたちは、双眼鏡で中の首相を見ていたそうな。それを見た白洲さんは、『バードウォッチングでもしてるのか。』と言ったとか。。(>_<))
その2.
落雷の恐れがある時は絶対にプレイさせなかった。プレイする本人が自殺するのはいいけど、キャディさんに何かあったらどうする!と言って。(^^)
その3.
田中首相が倶楽部の洗面所にあったタオルを持っていこうとして、『おい、お前は日本語が読めねえのか。』と言ったとか。そこには、“洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください”という張り紙があった。(^^)
なんてチャーミングな方だったんだろう。。
大好きだ。白洲次郎。